赤壁賦
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赤壁賦(せきへきのふ)は、元豊5年(1082年)、北宋の蘇軾が烏台詩案にかかる流罪の地、黄州(湖北省黄岡市黄州区)に在って作った前後2篇の賦。よって、『前赤壁賦』、『後赤壁賦』と分けて称せられることもある。散文的文章で書かれ、黄州城外の長江辺りにある赤鼻磯を赤壁(東坡赤壁とも)の地を三国時代の古戦場に見立てて書かれている[1][2]。
内容
[編集]前篇、『前赤壁賦』は、黄州で三度目の秋を迎えた元豊5年(1082年)7月の作である。友人と赤壁の下に舟を浮かべて清遊した時に詠んだとされる。楚辞の詩風を取り入れつつ、蘇軾が得意とする造物を用い、問答形式で人として世にあるべきことの深い喜びを語る。
後篇、『後赤壁賦』は、前篇に遅れること三か月、冬10月の赤壁の夜遊を材としている。前篇とは異なり、遊記に似ている[3]。天地と一体として存在していることに感得していることが読み取れる。
この「赤壁賦」は、『唐宋八家文文鈔』や『古文真宝』などに記載されている。
念奴嬌 赤壁懐古
[編集]蘇軾が「赤壁賦」を作った同時期、元豊5年7月の作に、「念奴嬌 赤壁懐古」の詞が作られている。「赤壁賦」では自然という造物に対し人としての深い喜びや感得を抱いていたのに対し、「念奴嬌 赤壁懐古」では、赤壁を目にした蘇軾が、戦場と化していた赤壁の地の変わり様をつづり、また当時戦っていた周瑜らを想い慕って詠んだとされる[4]。この詞も「赤壁賦」と並び有名である。