野澤晁
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名前 | ||||||
カタカナ | ノザワ アキラ | |||||
ラテン文字 | NOZAWA Akira | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
出身地 | 広島県 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
広島高師附属中学校 | ||||||
早稲田大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
夕刊ひろしま新聞社 | ||||||
代表歴 | ||||||
1934 | 日本 | 3 | (3) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
野澤 晁[1](のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2000年5月13日[要出典])は、広島県出身のサッカー選手、日本代表選手(全日本)。フォワード。野澤正雄は実兄。
来歴
[編集]広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1933年、早稲田大学へ入学。早稲田大学ア式蹴球部で、川本泰三、堀江忠男、加茂健、加茂正五、西邑昌一らと関東大学リーグを四連覇、東京大学ア式蹴球部黄金期後の早稲田大学黄金時代に貢献した。
大学在学中の1934年には日本代表に選出され、第10回極東選手権大会(マニラ)出場。足を痛めていた川本に次ぐフォワードとして全3試合にフル出場。第2戦のフィリピン代表戦では、相手に胸を蹴られて肋骨が折れ、意識を無くすほどの重症を負ったが、逆転の決勝ゴールを叩き込むなど3試合3得点を決めた[2][3]。
1936年3月に早稲田大学を卒業[4]し、南満州鉄道に入社した[5]。
戦後は中国新聞の系列会社「夕刊ひろしま新聞社」に勤務。サッカーはこの会社でも続けた。
所属クラブ
[編集]代表歴
[編集]出場大会
[編集]- 第10回極東選手権大会(1934)
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1934)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1934 | 3 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 |
通算 | 3 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1934年05月13日 | マニラ | オランダ領東インド | ●1-7 | 竹腰重丸 | 極東選手権 | |
2. | 1934年05月15日 | マニラ | フィリピン | ○4-3 | 極東選手権 | ||
3. | 1934年05月20日 | マニラ | 中華民国 | ●3-4 | 極東選手権 |
得点数
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 大会 |
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1. | 1934年05月15日 | マニラ | フィリピン | ○4-3 | 極東選手権 | |
2. | 1934年05月20日 | マニラ | 中華民国 | ●3-4 | 極東選手権 | |
3. |
脚注
[編集]- ^ 代表TIMELINE | SAMURAI BLUE サッカー日本代表 | 日本サッカー協会/
- ^ ケガの恐怖を除くドリブル練習|賀川サッカーライブラリー
- ^ 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年、14、15頁
- ^ 『早稲田大学ア式蹴球部50年史』WMW50年史編集委員会、1977年、332頁
- ^ 「早大蹴球部卒業選手勤務先」 読売新聞、1936年1月30日、2016年4月12日閲覧