コンテンツにスキップ

長島藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長島藩(ながしまはん)は、伊勢国桑名郡長島(現在の三重県桑名市長島町)に存在した。居城は長島城[1]

藩史

[編集]

伊勢長島は戦国時代織田信長の攻撃を受けて天正2年(1574年)、一向一揆衆2万人が大量虐殺されたことで有名である。その後、領主は滝川一益織田信雄豊臣秀次とめまぐるしく変わり、慶長3年(1598年)に福島正則の弟・福島高晴が1万石で入部した。慶長5年(1600年)に高晴は大和宇陀松山藩へ移され、翌年に徳川譜代の菅沼家上野阿保藩より2万石で入ることにより長島藩が立藩した。第2代藩主となった菅沼定芳は城改修・城下町建設・新田開発などを行なって藩政の基礎を固めたが、元和7年(1621年)に近江膳所藩へ移され、長島藩は一時、廃藩となった。

慶安2年(1649年)、久松松平家松平康尚下野那須藩より1万石で入ることで再び立藩する。しかし貞享2年(1685年)に康尚の跡を継いだ次男・松平忠充元禄15年(1702年)に乱心により重臣を殺害したため、改易された。代わって常陸下館藩から増山正弥が2万石で入る。増山家は第4代将軍・徳川家綱の生母・宝樹院の縁者であったことから取り立てられた大名家である。第6代藩主・増山正寧や第7代藩主・増山正修はいずれも若年寄を務めた。

以後、増山家が8代にわたって支配し、明治4年(1871年)の廃藩置県によって長島藩は廃されて長島県となり、その後安濃津県に編入された。

長島はデルタ地帯のために洪水による水害を受けやすく、田畑を等級化することによる災害対策が行なわれていた。

歴代藩主

[編集]

菅沼家

[編集]

2万石。譜代

  1. 定仍(さだより)〈従五位下 志摩守〉
  2. 定芳(さだよし)〈従五位下 織部正〉

幕府領

[編集]

元和7年(1621年) - 慶安2年(1649年)

松平(久松)家

[編集]

1万石。譜代。

  1. 康尚(やすひさ)〈従五位下 佐渡守〉
  2. 忠充(ただみつ)〈従五位下 佐渡守〉

増山家

[編集]

2万石。譜代。

  1. 正弥(まさみつ)〈従五位下 兵部少輔〉
  2. 正任(まさとう)〈従五位下 河内守〉
  3. 正武(まさたけ)〈従五位下 弾正少弼〉
  4. 正贇(まさよし)〈従五位下 対馬守〉
  5. 正賢(まさかた)〈従五位下 河内守〉
  6. 正寧(まさやす)〈従五位下 弾正少弼〉
  7. 正修(まさなお)〈従五位下 対馬守〉
  8. 正同(まさとも)〈従五位 備中守〉

増山家長島藩の家臣

[編集]

幕末の領地

[編集]

明治維新後に、桑名郡18村(笠松代官所管轄の旧幕府領)、上総国周淮郡41村(旧幕府領2村、旗本領1村、前橋藩領1村、飯野藩領2村、安房上総知県事領36村、内訳は幕府領11村、旗本領24村、与力給地2村、西端藩領4村、寺社領のみ2村)が加わった。なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。

脚注

[編集]
  1. ^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(371ページ)
先代
伊勢国
行政区の変遷
1649年 - 1871年 (長島藩→長島県)
次代
安濃津県