阿史那弥射
阿史那 弥射(呉音:あしな みじゃ、漢音:あしだ びしゃ、拼音:Āshǐnà Míshè、? - 662年)は、西突厥の可汗で、唐の軍人。室點蜜可汗の五代の孫。突厥族[1]。
生涯
[編集]阿史那弥射の家系は代々莫賀咄葉護(バガテュル・ヤブグ:官名)となっており、阿史那弥射も莫賀咄葉護となる。
貞観6年(632年)、太宗は詔を下し、鴻臚少卿の劉善を西突厥に遣わして、阿史那弥射に奚利邲咄陸可汗(イルテベル・テュルク・カガン)の称号を授け、鼓纛・綵帛万段を下賜した。しかし、その族兄の阿史那歩真は自立して可汗となることを欲し、遂に阿史那弥射の弟や姪など20数人を謀殺した。阿史那弥射は阿史那歩真と不仲となり、貞観13年(639年)に所属の処月・処密の部落を率いて唐に亡命し、右監門大将軍を授かる。その後、阿史那歩真は遂に自立して咄陸葉護(テュルク・ヤブグ)となったが、その部落の多くが従わなかったので、阿史那歩真も唐に亡命し、左屯衛大将軍を授かった。
貞観18年(644年)、阿史那弥射は太宗の高句麗征伐に従軍し、その功により平襄県伯に封ぜられる。
顕慶2年(657年)、右武衛大将軍となり、阿史那歩真と共に阿史那賀魯を討伐すると、興昔亡可汗(こうせきぼうかがん)[2]を拝命し、右衛大将軍・崑陵都護を兼任し、阿史那賀魯の五咄六部落[3]を分けて統領した。この年、阿史那弥射は雙河(ボロ川、ボロタラ川)で真珠葉護(インチュ・ヤブグ)を撃ってこれを斬り、闕啜(キュルチュル:官名)2人を殺した。
龍朔2年(662年)、ふたたび阿史那歩真と共に、䫻海道大総管の蘇海政に従って亀茲討伐を行った。ここで阿史那歩真は阿史那弥射の部落を併せることを欲し、蘇海政に「阿史那弥射が謀反を企んでいる」と偽りの報告をした。この時、阿史那弥射は前線で指揮をしていたが、蘇海政に「齎物数百万段を可汗及び諸首領に賜う」と言われて麾下を率いて受け取りに行ったところ、その麾下と共に誅殺された。阿史那弥射配下の鼠尼施部・抜塞干(バルスカーン)部[4]は逃走したが、蘇海政によって討たれた。
子
[編集]- 阿史那元慶(左豹韜将軍)
脚注
[編集]- ^ 劉學銚『五胡興華:形塑中國歷史的異族』知書房、2004年8月1日、87頁。ISBN 9867640411 。
- ^ 「先に亡びたものを復興するカガン」の意。(佐口・山田・護 1972,p246-247)
- ^ 「都陸」「咄陸」とも音写される(佐口・山田・護 1972,p246-247)。内藤みどりは咄陸・咄六・都陸・都六を突厥と同じく、Türk,Türükを写したものであるとしている(内藤 1988,p153-158)。
- ^ 内藤 1988