鳩の頸飾り
ライデン大学図書館の蔵書にある写本 | |
著者 | イブン・ハズム |
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国 | アル=アンダルス |
言語 | アラビア語 |
題材 | 恋愛論 |
出版日 | 1022年 |
アラビア語文芸では、イスラーム以前の時代から恋愛についての作品が盛んだった。その伝統はイスラーム王朝によってイベリア半島にも伝わって発展をとげる。本書もその一つで、愛の特性や意味、始まりと終わり、良い面や悪い面、恋人たちについて多数のエピソードや自作の詩を交えながら論じられている[3][4]。著者が異性に囲まれて暮らした中で身についた観察眼に加えて、出来事に対する分析と体系化、そして理想主義が融合した内容になっている。エピソードの主な舞台は、当時のヨーロッパにおける大都市で「世界の宝飾」[注釈 1]とも呼ばれたコルドバであり、洗練された宮廷生活の一端がうかがえる[注釈 2][7]。
著者のイブン・ハズムは、神学や法学においてアンダルスのウマイヤ朝(以後「ウマイヤ朝」)を代表する学者の一人だった。しかし、ウマイヤ朝が滅んで乱世へと移り変わる中で、その思想は受け容れられなかった。ほとんどの著作が焼かれる中で、本書は1冊だけ写本が残り、オスマン帝国からヨーロッパに伝わった[8][9]。写本がライデン大学で発見されると、各国の第一線のイスラーム研究者たちによって翻訳され、彼の著作の中で最も有名になった[10]。
背景・著者
[編集]地理的状況
[編集]イベリア半島は、8世紀からウマイヤ朝による支配が進んだ。ズィンミーの定めによってムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存し、西アジアから導入した灌漑技術で農業生産が増え、地中海各地との貿易で栄えた[注釈 3]。首都のコルドバは10世紀に少なくとも人口10万人に達し、コンスタンティノープルとともにヨーロッパを代表する都市へと拡大する[12]。コルドバは政治・経済のみならず文化面でも繁栄した。写本が行われた他にバグダードの知恵の館と並んで翻訳事業も盛んであり、古代ギリシアの文献やインド説話もアラビア語に訳された[注釈 4]。キリスト教圏ヨーロッパの図書館の蔵書が最大で400巻だったのに対して、コルドバではカリフの図書館だけで40万巻があった[注釈 5][15]。多数の書籍を作るために製紙業も盛んであり、ハティバではヨーロッパ初の製紙工房が建設され、羊皮紙よりも安価な紙が大量に生産された[注釈 6][17]。
著者
[編集]イブン・ハズムはコルドバ近郊の名家に生まれた。幼少期からハレムの女性たちとともに生活し、読み書きをはじめとする教育も侍女から受けて育った。髭が生えそろうまで男性との同席経験がなく、この生い立ちが女性についての観察眼を養ったと回想している[18]。父のアフマドはカリフのヒシャーム2世に仕える大臣であり、大宰相のアル・マンスールを補佐していた。アル・マンスールはカリフを超えるほどの権力を誇ったが、彼の死後に内紛が起き、コルドバは荒廃する。ウマイヤ朝は滅びに向かい、諸王国が並び立つタイファの時代になり、家族や家を失ったイブン・ハズムは19歳でアルメリアに逃れた。彼は流浪の暮らしをしながらウマイヤ朝を再興するために働くものの、従軍した勢力が敗北して捕虜となる。解放されたのちにハティバにたどり着き、この地で暮らしながら29歳の頃に書かれたのが本書である[注釈 7][20][21]。
イブン・ハズムによると執筆の動機は、愛の特性、意味、原因、属性、付随して起こる事柄についての論考を求められたからであった。求められなければ執筆しなかったが、時には心を憩わせるのも必要だと書いている。論考を求めた人物が誰なのかは不明で、アルメリアに住む友人が執筆をすすめたという説もある[22]。
アラビア語文芸における恋愛
[編集]恋愛は、アラビア語文芸の伝統的な題材でもあった。イスラーム以前のジャーヒリーヤ時代から、ガザル(恋愛詩)やナスィーブ(恋愛叙情詩)が作られていた[注釈 8][24]。イスラーム世界では純愛を尊ぶ伝統があり、手の届かない相手や、許されぬ事情で会えない相手に対して恋愛を謳う詩歌がアラビア語やペルシア語で数多く作られた[注釈 9][26]。
イブン・ハズムに先行するアンダルスの恋愛作品では、初期の代表としてイブン・アブド・ラッビヒ(860年–940年)の詞華集『唯一の首飾り』が知られている。恋愛論としては、ムハンマド・イブン・ダーウド(868年-910年)による『花の書』がある。これは50章の詩文選で、アラブの恋愛詩を多数収録している[27][28]。イブン・ハズムの同世代としては、ウマイヤ朝の王女で詩人でもあるワッラーダ(994年-1091年)と詩人イブン・ザイドゥーン(1003年-1071年)の相聞歌も有名である[29]。
内容
[編集]- 序章
- 第1章:愛の本質について
- 第2章:愛の徴候
- 第3章:夢で陥る愛
- 第4章:噂に始まる愛
- 第5章:一目惚れ
- 第6章:長い交際ののちの愛
- 第7章:特定の性質を愛してそれに固執するもの
- 第8章:言葉による暗示
- 第9章:眼による暗示
- 第10章:恋文
- 第11章:愛の使者
- 第12章:愛の秘匿
- 第13章:愛の漏洩
- 第14章:従順
- 第15章:無理強い
- 第16章:非難者
- 第17章:親しい助力者
- 第18章:監視者
- 第19章:中傷者
- 第20章:愛の成就
- 第21章:愛の断絶
- 第22章:誠実さ
- 第23章:裏切り
- 第24章:別離
- 第25章:満足
- 第26章:憔悴
- 第27章:忘却
- 第28章:死別
- 第29章:罪の卑しさ
- 第30章:貞節の美徳
- 最終章
各章の構成
[編集]30章は大きく4つのグループに分かれており、イブン・ハズム自身が解説している[31]。
- 愛の諸原理についての10章(1, 2, 3, 4, 5, 6, 8, 9, 10, 11)[31]。
- 愛の属性、愛のよい特性、悪い特性についての12章(7, 12, 13, 14, 15, 17, 20, 22, 23, 25, 26, 28)。イブン・ハズムの定義では、属性とは、他の属性を許容しない。愛はそれ自体が属性である。特性は、それ以上ほかの性質では特徴づけられない[31]。
- 愛にまつわる災難についての6章(16, 18, 19, 21, 24, 27)。災難は他の章と対になるものがあり、非難者の章(16)は親しい助力者(17)と、断絶の章(21)は成就の章(20)と対である[31]。
- 結論にあたる2章(29, 30)。善行をすすめて悪行をいましめるために書かれている[31]。
散文について
[編集]書簡体を使った洗練された随筆であり、アラビア語でリサーラーと呼ばれる形式にもとづいている[33]。恋愛のエピソードは、基本的に著者自身の体験か、同時代の出来事から選ばれている。イスラーム以前のジャーヒリーヤ時代の遊牧民をはじめとする過去の伝承は収録されておらず、その理由については、伝承のたぐいはあまりにも多く、それら借り物の装いで身を飾りたくないという表現をしている[34]。
- 愛の定義
第1章において、愛が含む種々相はきわめて崇高で、筆舌につくしがたいほどに繊細である述べている。愛の原因は肉体的な美しさではなく、魂が結合しようとするからであり、そのために外見によらないさまざまな愛が存在するとしている。例として、共通の目的によって生まれる愛、友人や知人の愛、仲間に対する愛、親族関係の愛、秘密を分かち合う愛、欲望を満たす愛などが挙げられており、引きつけ合う魂を磁石にもたとえている。イブン・ハズム自身はムスリムだが、キリスト教徒の友人も登場し、宗教を超えた交友が記されている。愛は宗教によって否定されず、法によって禁じられもしないと論じた[35]。
- 性別について
性別に関する意見も述べられている。イブン・ハズムの時代には、「欲望を抑えられるのは男性だけで、女性は欲望を抑えられない」という意見が多かったが、彼自身は欲望に男女差はないと論じた[36]。イスラーム世界の文芸ではしばしば男性の同性愛が題材になり、特に年長者と少年の関係が多い。本書でも同性愛のエピソードが記されており、イブン・ハズム自身の体験も含まれている[37][38]。ただしイスラーム法では男色そのものは禁じられており、イブン・ハズムは処罰を妥当としている[39]。
- 社会風俗
当時の文化水準や生活習慣もエピソードを通して描かれている。コルドバの宮廷では男女ともに高い教育を受け、詩歌や音楽は教養であるとともに恋愛の駆け引きでも重要だった[40]。恋愛の段階の中に恋文が含まれており、伝書鳩に恋文をつけたという話も出てくる。イブン・ハズム自身も侍女に文字を教わったと回想しており、読み書きが普及していたことがわかる[41]。また、ハンマーム(公衆浴場)の壁に描かれた女性の絵に恋するというたとえがあるため、古代ローマの公衆浴場の習慣がアンダルスに残っていたことがわかる[注釈 10][43]。本書のエピソードは、後世の文芸の恋愛描写にも影響を与えた(後述)。
書かれているエピソードのほとんどは、かつて繁栄した時代のコルドバである。本書の執筆時期には戦乱によって失われており、文章はノスタルジーや悲しみを含んでいる。第24章や第28章では、子供時代に住んでいた屋敷が荒廃して住む者がいないことや、多くの人々が殺害されたことを嘆いている。第27章でイブン・ハズムは、屋敷でともに育った奴隷の女性について語る。彼女に恋をしたが離れ離れになり、再会したときには彼女の身にふりかかった苦難によって見分けがつかないほど変わっていた。この体験をもとに、女性には丁寧かつこまめに接することが大事だと説いている[44][45]。
- 神学・法学の観点
イスラームの法学者らは、心を惹かれる女性を見つめることはシャリーア(イスラーム法)で許されるかや、秘めた恋の秘密を守ることをキトマーンの義務とするべきか、といった問題も議論した[26]。イブン・ハズムも本書で神学や法学の知識を活かして、クルアーンをはじめとする聖典や、古代の思想、同時代の法学を参考にした。クルアーンの70章5節の他にも、旧約聖書からは『創世記』30章、『エレミヤ書』31章29節が引かれている[46]。古代ギリシアからはプラトンやヒポクラテス、フィレモンなどの意見を引いている[47]。イスラーム法学者の見解としては、マーリク派の創始者マーリク・ブン・アナスや、イブン・ハズム自身の師の意見などを引用している[48]。
詩について
[編集]多数の詩は、ほぼすべて著者の作品である。一部、ジャーヒリーヤ時代の詩集である『ムアッラカート』を取り入れた技巧的な箇所がある。当時の優れた詩人の条件として、ジャーヒリーヤ詩から同時代の詩にいたるまで精通していることがあり、イブン・ハズムの詩に関する知識の広さを表している。ただし、詩の多くは筆写の際に割愛されたことが明らかになっている(後述)。イブン・ハズム本人は詩作に自負を持っており、当時の史料によればアブー・ヌワースに匹敵したという記録もあるが、現在の学者の評価は分かれている。美しい表現と深みを賛辞する意見、著者が自負するほどではないという意見などがある[49]。
登場人物
[編集]各エピソードには、イブン・ハズムの友人をはじめとして匿名の人々が多数登場する。実名になっているのは、名前を記しても害が及ばない人物、あまりにも有名な事件で隠す必要がない人物、話の種になることを求めている人物である[34]。実名では、以下のような人物が記されている。
ウマイヤ朝のカリフ:アブド・アッラフマーン3世、ハカム2世、ヒシャーム2世、ムハンマド2世、アブド・アッラフマーン5世[50]。ファーティマ朝のカリフ:アズィーズ、ハーキム[51]。詩人:アブー・タンマーム[52]、アブー・ヌワース[53]、ブフトゥリー[52]、ユースフ・ブン・ハールーン[54]。
執筆後の著者と作品の影響
[編集]イブン・ハズムは『鳩の頸飾り』を書いたあとも精力的に著述を続け、生涯を通して400におよぶ学術書を執筆した。イスラーム法学派においては少数派である厳格なザーヒル派に属しており、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教を比較した『諸宗派・諸党派・諸分派についての諸章』や、法学に関する『伝承による装飾の書』、そのほか言語、倫理、歴史などに関して著述した[9][55]。
イブン・ハズムが望んだウマイヤ朝の再興は実現せず、政治の世界からは身を引いた。しかし彼は妥協しない姿勢のために論敵が多く、ほとんどの著書が生前のうちにセビリアで焼かれた[注釈 11][9]。『鳩の頸飾り』の存在も長らく忘れられていたが、1冊の写本によって現代まで伝わることになる。筆写した者の詳細は不明であり、書き込みによればヒジュラ暦738年ラジャブ月(1338年2月)に行われた[57]。筆写にあたって詩の多くを割愛して重要なものを残したと書いてあり、完本はいまだに発見されていない[58]。
本書が書かれたのちのタイファ時代は、諸王国の分立で政治的には不安定だったが、競争によって文化はさらに活発になった[注釈 12]。文芸の世界では俗語を取り入れるようになり、宮廷内の洗練された作品に代わって、多くの人々が創作できるようになった。ヘブライ文芸では、イブン・ハズムと同世代の文人シュムエル・イブン・ナグレーラ(993年-1056年)が変化をもたらした。ユダヤ教徒のイブン・ナグレーラは、ヘブライ語詩にアラビア語の要素を持ち込んだ[注釈 13][61]。イブン・ハズムののちの世代としては、イブン・クズマーン(1078年 - 1160年)が放浪生活の中で吟遊詩人として活動し、アラビア語詩にアンダルスの俗語を取り入れた[62]。
影響
[編集]本書のエピソードは、後世の恋愛作品に影響を与えた。第11章では恋人の使者の例として、女医、瀉血師、行商人、骨董仲買人、髪結師、泣き女、歌い女、占い師、御用聞き、糸紡ぎ女、機織女などをあげている。恋の使いをする女性というテーマは、それ自体で文芸の1ジャンルとなった[30]。
本書の20章では、愛の成就について「新たな生」という表現を使っている。写本が公開されて以来、この思想がダンテ(1265年-1321年)と関係があるかどうかが議論となっている[63]。イブン・ハズムののちに、アンダルスのイブヌル・アラビー(1165年-1240年)が恋愛詩集『熱愛の解釈者』を著しており、一人の女性との出会いを通した形而上的な愛の成就が書かれている[注釈 14]。こうした愛についての思想の系譜が、ダンテの『新生』や『神曲』に影響を与えたという説もある[注釈 15][66][67]。
再発見・翻訳
[編集]17世紀オランダの大使としてオスマン帝国で生活したV・ヴェルナーが、現地で集めた中東諸国語の文献をライデン大学に寄贈した[注釈 16]。その中に『鳩の頸飾り』写本も含まれており、19世紀に同大学の東洋学者ラインハルト・ドズィーによって価値を見出された。ドズィーはアンダルス研究の専門家であり、著書『スペイン・ムスリム史』(1861年)に部分訳を掲載したところ、各国の研究者から注目を集める。部分訳はドイツ語に訳され、スペイン語への完訳も計画された。スペイン語訳は研究者の他界によって中断するが、ロシアの東洋学者D・K・ペトロフが1914年にアラビア語版を公刊してテクスト研究が進展した。1931年のアロイス・リチャード・ニークルの英語訳でさらに注目され、訳書が増えていった[注釈 17][70][69]。日本語訳はイスラーム学者の黒田壽郎が翻訳し、『鳩の頸飾り 愛と愛する人々に関する論攷』という書名で1978年に出版された。日本語訳の底本には、カイロ大学のT・A・マッキーが原典校訂をしたアラビア語版が用いられている[71]。
現存するイブン・ハズムの学術的な代表作は『諸宗派・諸党派・諸分派についての諸章』であるが、本書はそれよりも有名になった[10]。
出典・脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 修道女・作家のロスヴィータの言葉。彼女はコルドバについての情報をレセムンド司教から得ていた。レセムンドはウマイヤ朝の外交使節としてヨーロッパ各地を訪れており、『コルドバ歳時記』の著者でもある[5]。
- ^ 近い時代に書かれた宮廷の恋愛に関する文芸作品としては、紫式部の『源氏物語』がある[6]。
- ^ 繁栄をもたらした貿易は、ウマイヤ朝の危機も招いた。奴隷貿易でアンダルスに連れてこられたサカーリバの宦官や傭兵は、やがてカリフの後継問題にも介入し、ウマイヤ朝内紛の原因になった[11]。
- ^ キリスト教徒のアラビア語化も進んだ。9世紀の文人パウルス・アルヴァルスは、最近のキリスト教徒がアラビア語の詩歌や恋愛物語ばかりを読んでラテン語から離れてしまったと嘆いている[13]。
- ^ 12世紀以降、アンダルスのアラビア語文献をラテン語に翻訳する活動が盛んになり、北方ヨーロッパに医学・科学・哲学などを伝えた[14]。
- ^ ハティバは亜麻糸の産地とアルバイダ川の水質に恵まれて紙の製造に最適であり、12世紀にはハティバ産の紙はシャブティと呼ばれてイスラーム世界で最高級の紙になった[16]。
- ^ 著者が不遇の時代に書いた恋愛書という点で、スタンダールの『恋愛論』とも比較される[19]。
- ^ 恋愛論も数多く、バスラ出身の文人ジャーヒズ(776年頃-868年または869年)は『恋と女』という随筆を書いている。バグダード出身の歴史・地理学者マスウーディー(896年-956年)は『時代の諸情報』に古今の恋愛観を記録したといわれている[23]。バスラの秘密結社的な知識人サークルであるイフワーン・アッ・サファーは、『百科全書』の中で純正の愛について述べている[3]。
- ^ 恋愛詩においては、純愛によって病み衰えたり、叶わない恋によって正気を失う作品を謳ったウズラ族が有名である[25]。
- ^ ローマ式の公衆浴場はヨーロッパの北方では失われたが、イスラーム世界に採用された。偶像崇拝を禁じるイスラーム法学の観点では、人物を描いた壁画は批判された。これに対して医学的観点では浴場の壁画は健康にもよいとされ、題材には恋人、庭園、狩りなどがすすめられた[42]。
- ^ イブン・ハズムの属するザーヒル派は、類推(キヤース)、個人的見解(ラーイ)、合意(イジュマー)などによる妥協を認める学説に反対しており、イブン・ハズムは論敵に対して辛辣だった[56]。
- ^ 諸王国の君主は、権力の正統性を示すために学者、詩人、芸術家のパトロンとしてもふるまった[59]。
- ^ イブン・ハズムがウマイヤ朝への忠誠を誓い続けたのに対して、イブン・ナグレーラはタイファのグラナダ王国で働き、両者は激しい論争もしている[60]。
- ^ イブヌル・アラビーはスーフィズムの思想家でもあり、その詩もスーフィーの神的愛(maħabba,ħubb)がテーマになっている[64]。
- ^ ミゲル・アシン・パラシオスは、『昇天の書』に書かれているムハンマドの昇天伝説がダンテの作品に影響を与えているとして論議を呼んだ[65]。
- ^ ヴェルナーが買い集めた古書には、オスマン帝国の文人キャーティプ・チェレビーの蔵書も含まれていた[68]。
- ^ 1933年にロシア語訳、1941年にドイツ語訳、1949年にフランス語訳とイタリア語訳、1952年にスペイン語訳、1953年に新たな英語訳が出版された。スペイン語版ではホセ・オルテガ・イ・ガセットが序文を書いている[69]。
出典
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参考文献
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- 狩野希望「イブン・ハズム著『伝承による装飾』より「賃約の書」(1)」『イスラム思想研究』第2巻、東京⼤学⼤学院⼈⽂社会系研究科イスラム学研究室、2020年4月、15-31頁、ISSN 24348732、2020年8月8日閲覧。
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- 前嶋信次『生活の世界歴史7 イスラムの蔭に』河出書房新社〈河出文庫〉、1991年。
- 前嶋信次『イスラムとヨーロッパ 前嶋信次著作集2』平凡社〈平凡社東洋文庫〉、2000年。
- マリア・ロサ・メノカル 著、足立孝 訳『寛容の文化 - ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒の中世スペイン』名古屋大学出版会、2005年。(原書 Menocal, María Rosa (2002), The Ornament of the World: How Muslims, Jews, and Christians Created a Culture of Tolerance in Medieval Spain)
関連文献
[編集]- T・J・ゴートン 著、谷口勇 訳『アラブとトルバドゥール―イブン・ザイドゥーンの比較文学的研究』芸立出版、1994年。
- 三好準之助「ハルヂャの叙情性とムワッシャハ」『イスパニカ』第18巻、1974年、69-85頁、2020年8月8日閲覧。