富山藩
富山藩(とやまはん)は、江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩[1]である。石高は10万石、加賀藩の支藩であった。藩主は前田家で、家名は松平出雲守、家格は従四位下・大広間詰・外様・準国主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗家の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。
概要
寛永16年(1639年)6月20日、加賀藩第3代藩主前田利常(利長の弟で養子)が隠居するとき、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を幕府に願い出て許され、富山藩が成立した[2]。利次の母・珠姫は徳川秀忠の次女であることより、松平姓をもつ。
富山藩の当初の領地は、越中国婦負郡のうち6万石、新川郡黒部川西岸のうち1万6800石、富山町周辺7カ村3170石、加賀国能美郡手取川南岸のうち2万石の計10万石であった[3]。1640年、利次は加賀藩領内にあった富山城を借りて越中入りし、婦負郡百塚に新たに城を築く予定であった(そのため当時、利次は百塚侍従の称号で呼ばれていた)が費用が足りず、築城が進まないまま、やがてこれを断念して富山城に引き続き居することを決め、万治2年(1659年)2月[4]に居城が自領外という不便の解消ということもあって、加賀藩領であった富山城周辺の新川郡舟橋・水橋(2万7千石)と、自領の新川郡浦山辺(1万6800石)及び飛び地であった加賀国能美郡とを交換して藩領が定まった。なお、越中国のうち新川郡の大半は重要な鉱山の存在や江戸方面の防衛上重要な土地であることを理由に、礪波郡とその周辺は重要な穀倉地帯であったことから加賀藩が財政上手放せなかったため、射水郡も含めて加賀藩に取り残される形となった[5]。
そして、1661年に幕府から富山城改築の許しを得て、城と城下町の整備が本格的に進められた。富山町は越中における唯一の城下町であり、他は在郷町と呼ばれる農村地域に存在した商人の町で[注釈 1]、あとは農村であった。
新田開発により享保年間には総高は14万石を超えていたとされ、また漁業、売薬業、蚕種業、製紙業などに力を注ぎ、実質的な石高は20万石以上あったとされるが、藩の財政は成立時より常に逼迫しており、上方や飛騨の豪商、また本家である加賀前田宗家から多大な借財を抱えていた。ただしこれは、藩財政が放漫であったことを意味するのではなく、分藩の際に宗家から過大な家臣団を押しつけられたこと[注釈 2]、そして藩領が急流河川域であったためたびたび水害に見舞われ、また天保2年(1831年)の城下の大半が焼失した大火、安政5年(1858年)の大地震による大洪水などの災害と、度重なる公儀普請手伝いにより過大な出費を強いられたことによるところが大きい。
江戸後期から幕末には財政問題とそれに関わる権力争い(蟹江監物一件・富田兵部一件)また御家騒動(前田利保項目参照)などがあったことから宗藩の介入を招き、最後の藩主となった第13代利同を加賀藩から迎え、また富山詰家老の派遣を受け入れた。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって富山県となった。同年11月に旧加賀藩領の礪波郡と新川郡を併せて新川県となり、明治5年(1872年)9月には射水郡も編入して越中が一つの県となる。明治9年(1876年)4月に一旦石川県に合併されるが、明治16年(1883年)5月に越中4郡を再び分けて富山県を設置し、現在の富山県の領域が確定した。
領域
- 東部境界線[6]
- 富山平野の一部を縦横に分かちながらも、おおむね現在の富山市内を流れる大小の河川を境界に充てていた。具体的には、南端で越中国と飛騨国の国境上を起点とした場合、神通川(笹津のやや下流地点まで) ‐ 平野部を横断(長走、下タ杉、八木山、東大久保、合田が藩領 ) ‐ 熊野川 ‐ 平野部を横断(青柳新、牧田、青柳、布目、大浦、花崎、荒屋が藩領) ‐ 常願寺川(三室荒屋から馬瀬口辺り) ‐ 清水俣用水 ‐ 鼬川 ‐ 赤江川 ‐ 神通川、と山間部から平野部を縦断し、北端にて富山湾の沿岸部を終点とするラインであった。平野部において、かつては加賀藩領との境界を識別できるように、長走から合田にかけて堺松が植えられた。また、大庄には境塚が築かれた[7]。
- 西部境界線[6]
- 南部境界線[6]
- 幕末の領地
軍役
明暦元年(1655年)と推定される記録に、騎馬170騎、鉄砲350丁、弓60張、鑓150本、旗20本とする軍役規定があり「公儀御定也」とある。これは徳川家の譜代・旗本に対する寛永10年(1633年)軍役規定の10万石のものと同一であり、表高相当の幕府の軍役規定に準じていたことがわかる。
公儀軍役として、高田城請取(1681年)、飛州騒動(1773年)での出兵および蝦夷地出兵準備(1804-1818年)があり、戊辰戦争では新政府側に立って藩兵4小隊(158人)が加賀藩とともに越後長岡藩攻め(北越戦争)に参加した。
産業
農村の管理・徴税の仕組みとして、宗藩と同じく十村制をとっていた。藩政初期から積極的に新田開発に取り組み、惣高は元禄11年(1698年)に13万9千石弱、明治3年(1870年)には15万8千石余に達していた。年貢米のうち1万石から1万5千石が上方(大阪廻米)に、5千石程が飛騨(飛騨登米)へ領外移出された。
2代藩主正甫は製薬に興味を持ち、薬の製法を領内に広め、越中売薬の基礎を築いた。売薬業は、先立つものとして立山その他の山岳修験者による修験売薬があったが、藩が力を入れた売薬業者がやがてこれにとって代わり、元禄年間には全国にわたる行商圏が確立された。やはり他国に配置行商したものに蚕種があり、八尾町がその中心であった。その他の産物としては、山間部での製紙、呉羽丘陵での茶の栽培などが挙げられる。また、現在、駅弁として知名度の高い富山名産の鱒寿司は、3代利興の頃に鮎寿司とともに作られるようになったとされる。
飛騨方面との交易が盛んで、米や海産物の他、加賀藩で生産された塩(能登塩)も富山藩を通じて販売された(飛騨登塩)。
教育
武士に対する教育機関として、安政2年(1773年)に創設された富山藩校・広徳館があった。藩校としては全国で62番目のものであり、宗藩の加賀藩校明倫堂(1792年)に比べ20年も早い。これは6代藩主利與が人材育成のため、財政難の中の強い反対を押し切って設立したものであり、江戸の昌平黌に範をとった。他に私塾として臨池居、岡田塾などがあった。
庶民の教育機関としては寺小屋があったが、越中の寺子屋では農民の師匠が多いことに特色があった。一般的には僧侶・神官・浪人が師匠となることが多いが、越中においては真宗王国と目されるにもかかわらず僧侶の師匠は少なく、大半が有力農民や地主が務めた。またほとんどが男であり、女師匠は1名が知られるのみである。他地域に比べると読み書き算盤のうち算術が重視され、富山町では一般的な教本の他に、『薬名帳』・『調合薬付』といった地場産業である売薬業を考慮したものが用いられるという特徴もあった。
歴代藩主
家臣
富田下総 3000石
近藤大炊 2500石
村左兵衛 2000石
蠏江主膳 1400石
戸田豊太郎 1000石
生田左近 900石
佐脇數馬 800石
瀧川圖書 800石
富田兵部 800石
和田少左衛門 800石
不破内記 700石
近藤橘馬 600石
堀田寛兵衛 600石
河村志津磨 500石
小塚主殿 500石
入江権兵衛 450石
津田五百記 450石
小幡左橘 400石
奥村杢左衛門 400石
寺西左膳 400石
野村又兵衛 400石
加藤左門 330石
浦上判五左衛門 300石
鹿毛冨記 300石
鈴木権佐 300石
高澤三太夫 300石
栂右門 300石
不破織摩 300石
村善左衛門 300石
脚注
注釈
出典
- ^ 博物館だより 第二十三号 収蔵品紹介『富山藩領絵図』(富山市郷土博物館 1998年12月25日 2023年8月15日閲覧)
- ^ 『ふるさと石川歴史館』(2002年6月10日、北國新聞社発行)530頁。
- ^ 平凡社(1994年)『日本歴史地名大系 16 富山県の地名』富山市、p443
- ^ 『富山県の歴史』(1997年8月10日、山川出版社発行)年表17頁。
- ^ 『富山県の歴史』(1997年8月10日、山川出版社発行)152 - 153頁。
- ^ a b c 坂井(1974年)第2章 富山藩の成立 p73-76、2.2.2 富山藩領域
- ^ 平凡社(1994年)『日本歴史地名大系 16 富山県の地名』大山町 p317
- ^ 富山県(1909年)『越中史料 巻2』532-535p
- ^ 平凡社(1994年)『日本歴史地名大系 16 富山県の地名』357p
参考文献
- 坂井誠一 『富山県の歴史』 山川出版社 1970年
- 坂井誠一 『富山藩 加賀支藩十万石の運命』 巧玄出版 1974年
- 坂井誠一・高瀬保 『富山県の教育史』 思文閣出版 1985年
- 『日本歴史地名大系 16 富山県の地名』 平凡社 1994年
- 富山県 『越中史料 巻2』 富山県 1909年
- “国境論争”. おレンジのおと・橙手帳、自然と山のページ、白木峰、国境争い、 2005-6. 2011年3月24日閲覧。
関連項目
外部リンク
先代 加賀藩の一部 |
行政区の変遷 1639年 - 1871年 (富山藩→第1次富山県) |
次代 新川県 |