中川英造
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なかがわ えいぞう 中川 英造 | |
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生誕 |
1908年3月23日 広島県 |
死没 | 1999年10月14日(91歳没) |
死因 | 急性肺炎 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京商科大学 |
職業 | 実業家 |
中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月23日 - 1999年(平成11年)10月14日)は、日本の実業家。朝日新聞社で業務部門を歩み、代表取締役専務を経てテレビ朝日第7代社長。広島県出身。
経歴
[編集]1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、東京朝日新聞社入社。大学時代は、漕艇部に所属し、のちに日本漕艇協会(現日本ローイング協会)の顧問なども務めた。
庶務、販売、会計各部長、業務局次長、経理総務などを歴任。1959年(昭和34年)2月には、新設の北海道支社の初代支社長となり、翌年取締役となる。1963年の村山事件の折には、矢島八洲夫、横田武夫らともに辞表を提出し、業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職した。
1964年(昭和39年)2月常務、1967年8月専務、1974年相談役。
テレビ朝日社長
[編集]1975年(昭和50年)5月、NET(現・テレビ朝日)副社長となり、1981年6月、高野信の後継として社長に就任した。日本の不参加によって、独占中継権を獲得したモスクワオリンピック中継の価値が暴落し、ダメージを負っていた同社の難しい舵取りを任された。1983年(昭和58年)6月、後任の田代喜久雄に道を譲り相談役に退く。この他、系列局の北海道テレビ放送の取締役も務めた[1]。
1999年10月、急性肺炎のため91歳で死去。