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井上弘昭

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井上 弘昭
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市西淀川区
生年月日 (1944-05-21) 1944年5月21日(80歳)
身長
体重
176 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1967年 ドラフト1位
初出場 1968年8月1日
最終出場 1985年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 西武ライオンズ (1985)
  • 中日ドラゴンズ (1992 - 1994)

井上 弘昭(いのうえ ひろあき、1944年5月21日 - )は、大阪府大阪市西淀川区出身の元プロ野球選手内野手外野手)。現在は中日スポーツ野球評論家

経歴

[編集]

北陽高校から電電近畿に進む。1965年第36回都市対抗野球大会では、八幡製鉄との準決勝で3点本塁打を放つなど活躍。決勝では小弓場保日本生命から補強)の好投もあって住友金属に完封勝利、初優勝を飾った。この時のチームメートに浜口春好がいた。直後の全日本チーム中南米遠征に小弓場、浜口とともに参加。その後も都市対抗野球に連続出場を続け活躍する。1966年にはアマチュア野球世界選手権日本代表に選出され日本の優勝に貢献、また社会人ベストナイン(外野手)に選出された。

1967年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。即戦力として期待されるも1年目の1968年は8試合の先発出場にとどまる。翌1969年には一軍に定着し、8月から主に左翼手、一番打者として起用される。1970年には水谷実雄が左翼手として起用された事により三塁手に回り、99試合に先発出場を果たす。しかし1972年には打撃不振もあってレギュラーの座を外れ、出場機会も減少。

1973年川畑和人との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。中日では持ち前の勝負強い打撃でレギュラーに定着する。1974年には左翼手としてクリーンアップを打ち活躍、初めて規定打席(11位、打率.290)に到達しリーグ優勝に貢献した。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは全6戦に三番打者として出場するが、23打数4安打2打点と真価を発揮できなかった。

1975年には、元同僚の山本浩二首位打者を争う[1]。僅差で2位に迫っていた10月19日の対広島最終戦では、広島バッテリー(永本裕章投手と道原博幸捕手)から、プロ野球公式戦史上初の「満塁敬遠」を受ける[2](山本はこの試合を欠場していた)。2日後の10月21日のシーズン最終戦で安打を打てば逆転で首位打者になれたが、最終打席で内角への際どい投球を死球と判定され、本人は必死で「当たっていない」と主張したが、判定は覆らず[3]、惜しくもタイトル獲得はならなかった[4][5]。同年セ・リーグベストナイン(外野手)を受賞。1976年は故障もあって欠場が多く打撃も低迷、しかし翌1977年は復活し打率.284(リーグ23位)と活躍した。

1978年には谷沢健一の故障もあって一塁手に回るが、同年4月2日の大洋戦では斉藤明夫からサヨナラ本塁打、8月29日のヤクルト戦では松岡弘からサヨナラヒットを放っている。翌年には外野手に戻る。1980年には豊田誠佑が台頭し、故障もあって出場機会が減少する。

1981年富田勝・大島秀秋との交換トレードで、日本ハムファイターズに移籍。常時のスタメン出場はできなかったが、ここぞという場面での勝負強さは少しもさび付いておらず、19年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献する。また、同年の日本シリーズでは第一戦で角三男からサヨナラヒットも放っている。1982年7月2日の対近鉄戦では、代打で通算150本塁打となる決勝2ランを放ち、この試合で通算200勝を達成した江夏豊の名球会入りに貢献した。1984年のシーズン終了後に現役を引退し、1985年、広島時代のコーチであった監督の広岡達朗に請われ、西武ライオンズの守備走塁コーチに就任するも、前年の田淵幸一山崎裕之の引退により右の代打が不足していたことから現役復帰した(コーチ兼任)。しかし、10試合のみの出場に終わり、シーズン終了後に西武を退団し正式に引退し、テレビ愛知・初代プロ野球解説者に就任した。

1992年からはかつての同僚である高木守道の誘いで中日二軍打撃コーチを務め、1993年から1994年までは一軍打撃コーチを務めた。

がっちりした体つきから、あだ名は「ポパイ」。攻守共に、闘志を前面に押し出したプレーで人気があった。通算137死球は、引退時点では竹之内雅史衣笠祥雄に次ぐ歴代3位の記録だった。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1968 広島 35 67 58 6 13 2 0 1 18 5 0 0 1 1 5 0 2 9 2 .224 .303 .310 .613
1969 102 306 270 36 68 6 1 12 112 23 5 4 2 0 23 0 11 53 6 .252 .336 .415 .750
1970 113 377 339 41 71 14 1 13 126 29 11 5 4 0 25 1 9 45 11 .209 .282 .372 .653
1971 111 330 283 27 61 7 3 5 89 17 10 4 8 1 30 1 8 48 8 .216 .307 .314 .622
1972 43 98 86 8 16 3 0 2 25 4 1 1 1 1 4 0 6 15 1 .186 .268 .291 .559
1973 中日 103 361 317 41 86 12 2 16 150 57 6 5 6 2 26 1 10 45 9 .271 .344 .473 .817
1974 128 510 435 65 126 18 1 18 200 58 15 5 6 6 50 1 13 63 11 .290 .375 .460 .835
1975 130 537 468 80 149 20 0 18 223 65 11 6 7 3 46 6 13 40 15 .318 .392 .476 .869
1976 104 261 225 29 48 6 0 7 75 23 4 2 8 2 20 0 6 43 6 .213 .292 .333 .626
1977 120 444 387 60 110 13 0 17 174 60 5 3 8 3 32 1 14 51 9 .284 .358 .450 .807
1978 111 362 317 39 72 11 0 12 119 39 1 2 2 2 31 4 10 49 4 .227 .314 .375 .689
1979 113 409 345 47 94 16 0 16 158 49 2 1 10 3 38 0 13 57 10 .272 .363 .458 .821
1980 58 154 134 13 39 3 0 7 63 27 0 1 1 0 15 0 4 19 4 .291 .379 .470 .849
1981 日本ハム 85 243 201 17 52 12 0 4 76 30 2 0 0 3 30 0 9 21 5 .259 .374 .378 .753
1982 69 89 68 4 18 4 1 2 30 11 0 0 0 1 16 3 4 8 1 .265 .427 .441 .868
1983 54 65 57 4 15 0 0 4 27 9 0 0 0 0 6 0 2 4 3 .263 .354 .474 .828
1984 42 86 77 4 17 3 0 1 23 10 1 0 2 1 4 0 2 8 2 .221 .274 .299 .573
1985 西武 10 15 14 1 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 1 2 1 .214 .267 .214 .481
通算:18年 1531 4714 4081 522 1058 150 9 155 1691 517 74 39 66 29 401 18 137 580 108 .259 .343 .414 .758
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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  • 最多安打 : 1回 (1975年) ※当時連盟表彰なし、1994年より表彰

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

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  • 25 (1968年 - 1972年)
  • 6 (1973年 - 1980年)
  • 10 (1981年 - 1984年)
  • 98 (1985年 - 同年途中)
  • 35 (1985年途中 - 同年終了)
  • 92 (1992年)
  • 84 (1993年 - 1994年)

脚注

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  1. ^ 山本浩二監督「我が道」特別版
  2. ^ ただし、日本シリーズでは1950年に毎日オリオンズ若林忠志が4点リードながら満塁で当日2本塁打を打っていた松竹ロビンス岩本義行を迎えた際に、満塁でも敬遠した例がある。
  3. ^ ベルトに当たって「パーン」と音がしたため明らかだったが、それでも主張した。その時の球審が奇しくも元広島の山本文男で、「これを認めたら、自分は審判をやめなければいけない。」と言われ、最後は受け容れたという。なお、巨人びいきの審判が多かった中で山本文男は広島びいきの審判としても知られていた。下門晋(プロデューサー)『ひろしま深掘りライブ フロントドア』(テレビ)広島ホームテレビ、2018年5月26日。 
  4. ^ 【ダンカンが訪ねる昭和の侍】井上弘昭さん、巨人のV10阻止♪「燃えよドラゴンズ!」の頼れる3番 (1/3ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)
  5. ^ 松井秀喜はプロでも4打席連続四球…シーズン終盤「醜い敬遠騒動」の顛末”. 新潮デイリー (2021年10月16日). 2022年8月19日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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