内藤信正
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄11年(1568年) |
死没 | 寛永3年4月28日(1626年5月23日) |
別名 | 弥七郎(通称)、信政 |
戒名 | 光徳院本誉善寿宗学 |
官位 | 従五位下・紀伊守 |
幕府 | 江戸幕府伏見城代、大坂城代 |
主君 | 徳川秀忠、家光 |
藩 | 近江長浜藩主→摂津高槻藩主 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 | 父:内藤信成、母:粟生長勝の娘 |
兄弟 | 信正、信広、三條某室、井出正信室、遠藤俊春室、丹羽定明室 |
妻 | 石川康通の娘 |
子 | 信照、信武、信之、金森重次正室、水無瀬氏信室、内藤信義室、堀親昌継室、信直、植村泰朝正室、左近 |
内藤 信正(ないとう のぶまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・譜代大名。近江国長浜藩の第2代藩主、摂津国高槻藩主。伏見城代を経て、初代大坂城代となる。
生涯
[編集]永禄11年(1568年)、のちの長浜藩初代藩主・内藤信成の長男として生まれる。
天正12年(1584年)16歳で小牧・長久手の戦いに参加、その功を徳川家康に賞せられる(「寛永諸家系図伝」)。天正14年(1586年)には19歳で大番頭となり、同18年(1590年)の小田原征伐、19年の九戸政実の乱などに従軍した。
文禄4年(1595年)従五位下・紀伊守となり、また家督を継いで慶長11年(1606年)、長浜城に住した(※)。慶長20年(1615年)の大坂の陣では尼崎城の守備にあたり、同年閏6月采地をあらためて摂津国に移封され、高槻城を居所とした(高槻藩)。元和3年(1617年)伏見城代となり、1万石の加増を受けて摂津国内に転封、あわせて5万石を領した[1]。同5年から大坂城代を務める。寛永2年(1625年)知行を近江・山城・紀伊に移され、翌3年大坂城において死去した。享年59(以上「寛政重修諸家譜」)。
- 家督相続について、「諸侯年表」では慶長17年説を記すが、典拠とされている「藩翰譜」には所見がない。「寛政重修諸家譜」には「某年」とのみ記されており、正確には不明である。
系譜
[編集]子女は「寛政重修諸家譜」が記すのは次の5男5女である。記載の順に示す。
父母
正室
- 石川康通の娘
子女
- 内藤信照(長男)生母は正室
- 内藤信武(次男)
- 内藤信之(三男)
- 内藤信直(四男)
- 内藤左近「某」。「内藤家譜」(国立公文書館蔵)では早世と記されている。
- 金森重次正室
- 水無瀬氏信室
- 家臣内藤信義室
- 堀親昌継室
- 植村泰朝正室
脚注
[編集]- ^ 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)巻末付録の「大名配置」表内にある「高槻藩」の記載内容。
出典
[編集]- 『寛永諸家系図伝』8巻 続群書類従完成会、1985年 63より64頁
- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 199より200頁
- 国立公文書館所蔵「内藤家譜」(請求番号:157-0205)丁目:25
- 『内閣文庫蔵 諸侯年表』東京堂出版、1984年 831頁
- 『新編 藩翰譜』2巻 新人物往来社、1977年 103頁
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