岑昏
岑 昏(しん こん、? - 280年)は、中国三国時代の呉の文官[1]。
生涯
[編集]岑昏は何定や万彧や奚熙や陳声や張俶らと並び、孫晧の佞臣として有名であったという。
岑昏はよこしまに媚びへつらって孫晧の寵臣となり、好んで労役をおこし民衆を苦しめたため、呉から人心が離れる原因の一つとなった。(孫権の時代、赤烏8年(245年)から(丹陽郡)句容中道から東進して、雲陽西城(曲阿)まで運河を掘削させているが、)岑昏は雲陽から北上して長江につながる丹徒まで運河を掘らせ、また杜野(丹陽所属)から小辛(曲阿所属)まで切り開き、運河の両岸は山の如しといわれるほど大変な労力を費やして工事を行った。[2]
一方で、孫晧の理不尽な怒りを買って張尚が処刑されかけると、尚書であった岑昏は公卿以下百余名を率いて叩頭し嘆願したため死罪を免じられた、といった行動もあった。[3]
天璽元年(276年)に建てられた『封禅国山碑』には「尙書昏」の文字がみられる。その後、天紀2年(278年)頃には九卿の衛尉に就いており、政府施設の修理を上表した。宮門から朱雀橋までの両側に府舍を建て、男女で別の道を行かせるため大通りを開き、また両脇に高い垣根を築き瓦で覆った[4]。
天紀4年(280年)3月、呉が晋に攻め込まれ、晋の軍勢が建業に迫ると孫皓の親近者数百人は叩頭して「兵士が武器を取らない理由は岑昏である」と訴えた。孫皓は独り言で「もしそうなら、奴でもって百姓に謝罪せねば」と言うと、彼らは「わかりました」とすぐさま岑昏を捕縛した。孫皓は立て続けに処刑の取りやめの使者を送ったが、既に殺されていた[5]。
小説『三国志演義』では、孫晧の佞臣であることはそのままだが、身分は宦官(中常侍)であることにされている(物語中に岑昏を黄皓になぞらえる場面が出てくる)。晋軍に悩む孫皓にたいして長江に鉄鎖と鉄錐を設置して妨害する策を進言、実施されたが『晋書』「王濬伝」と同様に突破されてしまう。晋軍が城下に迫ると群臣は岑昏の死を求め、孫晧の命を待たずに宮中になだれ込み、岑昏を裂いてその肉を食らった。
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ 『新唐書』巻72 表12中 宰相世系二中の「岑姓」の項に「雲台二十八将」の岑彭の子孫(岑晊)が党錮の禁で呉郡に避難し、その孫の岑軻の子に岑寵、岑昏、岑安、岑頌、岑廣、岑晏がいたと記される。
- ^ 『三國志集解』呉主伝が引く『太平御覧』太平御覽引吳志、岑昏鑿丹徒至雲陽、杜野・小辛閒、皆斬絕陵襲、施力艱辛。杜野屬丹陽、小辛屬曲阿、今水道自常州府城外經奔牛・呂城以至鎭江府丹陽縣城外、自此再西北行至府治丹徒縣城外入江、大約卽孫權所鑿。至今此道舟行、望兩岸高如山、正所云斬絕陵襲者。
- ^ 『三国志』呉志 張紘伝注・『呉紀』による。『三國志集解』が引く『通鑑考異』によると岑昏らは泥頭で張尚の代わりに死を求めた為、死を免じられ広州へと流罪になった。
- ^ 『初學記』巻24 道路14「環濟《吳紀》曰:天紀二年,衛尉岑昏表修百府。自宮門至朱雀橋,夾路作府舍;又開大道,使男女異行。夾道皆築高牆、瓦覆,或作竹藩」
- ^ 『三国志』孫晧伝に引く干宝『晋紀』