■長谷部鷹子(はせべ・たかこ)さん
1921(大正10)年、岐阜県の職業軍人の家に生まれました。父は近衛兵でした。「女でも手に職を付けておくことは大事だ。緊急のとき、夫に代わって家計を支えることができる。何もできないのはいかん」と、尋常高等小学校のときに言われました。
女学校を出て、37(昭和12)年7月7日に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まり、いとこから「役場で赤十字の看護婦さんの募集をしているよ」と言われ、試験を受けたわけです。100人くらい来ていましたが、幸い合格しました。入学はその年の12月4日でした。
3年間勉強して、それからすぐ召集。内地の岐阜陸軍病院に半年間、4月までおりました。それから、2回目の召集で北支へ行きました。山西省、北京の西にあった臨汾陸軍病院に2年間勤務。昭和18年5月18日に帰国しました。
北支は、黄砂が1週間くらい発生して前が見えないくらい。そういう中での勤務でした。急性伝染病棟の方でした。赤痢や腸チフス、パラチフス、発疹チフスなどの病気です。
伝染病棟は200床くらいあったでしょうか。患者はレンガの上にわら布団。リンゲルを足にぶら下げ、水分補給の注射ですが、足がこんなにはれて。アメーバ赤痢というしつこい病気で、亡くなる人も多かったです。
重症の人は私たちが食べさせました。つらいと思ったことはなかった。どんなことがあっても乗り越えなければならないと思いましたよ。
有名な五台山の作戦があり、凍傷患者がたくさん出ました。兵隊さんは靴下や手袋に唐辛子を入れて、寒さを軽減していました。だけど、指が腐っちゃって。急に温めたらだめなんです。だんだん慣らしていかないと。内科に勤務替えになったとき、そういう患者を看護しました。
帰国後、役場から保健婦の勉強をしてほしいと話が来て、1カ月の講習後に試験がありました。3回目の召集は、ちょうどその発表の日です。行き先はただ、南方とだけ。着いたところがビルマ(現ミャンマー)です。
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