戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言 2

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穏やかな風景

 命をいただき、サイゴン陸軍病院のショロン分院で勤務した後、昭和21年5月18日に帰国しました。「葛城」という航空母艦で、広島の大竹港まで1週間で行きました。

 懐かしかったですね。航空母艦で沖縄を通ったとき、お船が浮かんでいて、それに乗っている人を見たときに涙が出ました。ああ、穏やかな姿だなあと。

 岐阜には20日に戻りました。弟が予科練の航空隊に行っていまして、沖縄へ出るところで出発が遅れ、行かなくてもよくなって。その弟が駅まで迎えに来てくれ、家まで40分ほど歩いていろいろ話をしました。「ご苦労さんでした。良かったね」と。

 私は、弟は戦死したものと思っていました。父は「日本人と生まれたからには、日本のために死ぬことは覚悟しなきゃいけない」と常々言っていました。沖縄の海を通るとき、この海戦で死んだんだろうなと思っていたのですが、迎えに来てくれたので、びっくりしました。今も元気で頑張っております。

 父も「ご苦労さんだった。よく帰ってきました」と言ってくださいました。「よく、国のために働いたね」と言ってほめてくれました。微力でしたが、国のためになれたことが、私の一番の誇りです。

 私が南方へ出発するとき、父は岐阜駅まで送ってくれて、「保健婦の試験、合格していたよ。元気で頑張ってきてね」とそれだけです。軍人だったので、さっぱりしていました。

 日赤から貸与された紺色の制服は、メイミョウを出るときも背嚢の中に畳んで持ってきました。これは最期の服装だからと。大事だから、最期の時にはこれを着て死のうねと言って。

 日赤精神です、何事も。会釈、返事の仕方、食堂のテーブルも奥の方は上級生と決まってるんです。規律がないと崩れてしまいます。

 岐阜班は全員帰りました。団結して一つになりました。1人でも落後者を出したらいかんから、みんなで支え合って、引っ張り合って、山越えして。食べるものもありませんでしたが、草も虫がついていたら食べられるから、そんなのを摘まんできて塩を入れて。そんな毎日でした。

 お国のために働いてくださった人がいて、そのおかげで、きょうがあるんだと感謝しております。これまで10回もビルマに行って慰霊祭をしてきました。隊長殿のご恩も忘れることはありません。亡くなるまで1年に3、4回、広島に行ってお見舞いをしてきました。

 帰国後、(結婚した)主人が病弱で、看護の傍らに勉強して教員の資格を取りました。子供たちには、平和な国でなければいけないということだけ教えました。

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