戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言 2

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マレー半島北上、ビルマへ

 私たちは、※インパール作戦の(救護)要員として召集されたのです。昭和18年10月30日のことです。広島の宇品まで行って、11月5日に船で出発。台湾海峡を通って、シナ大陸の近くをずっと南下していきました。

 1カ月かけてシンガポールに上陸。南方の気候や地形、戦況を勉強して、昭和19年1月16日に台風の中を出発し、マレー半島を列車で北上しました。

 ザラメの砂糖をいっぱい積んだ貨物船や鉄道を乗り継ぎ、ビルマのラングーンに着いたのは2月に入ってからでした。

 内地を出るとき、救護班は石川、岐阜、長野、静岡、和歌山、広島、佐賀、愛媛など10個班でした。(シンガポール上陸後)スマトラなどに行く2個班と分かれ、その他がラングーンに到着したわけです。

 そこはもう第一線ですね。夜に到着したら、すぐに空襲があって。照明弾が落とされてダァーッとなったわけです。(敵にとっては)お茶の子さいさいですね。あー、戦場に来たんだなということを自覚しました。

 1週間、ビルマの病気などを勉強して夜にトラックで出発。真っ暗な道です。と言っても爆撃で穴が開いて、道と言う道は通れないの。トラックが右往左往して、揺れました。

 やっと灯がともるところまで来たのですが、そこがマンダレーでした。昔から王朝の栄えたところです。

 3月5日、そこから1300メートルの高地に上がりました。北部のメイミョウというところで、かつての英国の避暑地です。松林もあり、きれいなところでしたが、後に戦火に包まれ、陥落しました。

 そこで伝染病棟の勤務が始まったのですが、やはり、着いたとたんに爆撃、照明弾です。スパイが入っていて分かるんです。インドのデリー軍に通信するらしく、私たちを追っ掛けてくるような状態でした。

※中国への補給路(援蒋ルート)遮断を目的に日本陸軍が昭和19年3月、インド北東部の要衝インパール攻略に向けて開始した作戦。補給の軽視から食料や弾薬が欠乏。飢えやマラリアなどで戦病者が続出し、英軍の強力な反攻で、作戦は7月に中止され、多数の犠牲者を出して撤退した。

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