戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言 2

  • X
  • facebook
  • hatena-bookmark

山道に座り込む患者

 マンダレーの敵の真ん中を通り、3日間かけてやっとの思いでカローまで行ったんです。そこでは、静岡班が124兵站病院で勤務していました。まだ、真っ白な白衣姿で。それを見て驚きました。

 私たちはメイミョウに入ったらすぐ、ドラム缶に赤土を入れ、草を刈って入れて、白衣を染めました。白衣は目立ってだめです。メイミョウの土は赤い、真っ赤なんです。そしたら原野に生えている草の色と同じになって、それを着て勤務していました。

 隊長殿は軍医大佐です。とっても温かい方でね。隊長宿舎の隣に私たちの宿舎もあったんです。お食事作るといつも隊長殿のところへ持っていきました。でも、太平洋汁といって、カレーの中に小さなトマトが浮いているだけの食事でした。

 戦況がここまで悪化してきては、救護班をこのままとどめておいてはいけないと判断されて。師団を離れて独断でやってくださった。そのときは、敵もこっちへ入ってきてたんです。後方を遮断されていたわけです。それであんな白骨街道ができてしまったのです。

 カローも危なくなって。患者さんも全部東の方に行きなさいと。それで毎日おにぎりを作って持たせ、私たちが最後に出たのが4月23日でした。

 患者さんにはおにぎりを持たせ、お米も渡して、「行けるところまで行きなさい」と送り出し、私たちは後から来たんです。そしたら、もう歩けなくなった人、足が腫れて動けない人、そういう人が道にいっぱい座り込んでいるんですよ。それで「お水、お水」と言うので、私たちが水筒の水をキャップに移して1杯ずつ口に注ぎました。

 「あとから元気になって来てくださいよ」と、声を掛けるしかありませんでした。そう言って別れ、私たちは東へ東へと歩いたわけです。

 (トラック輸送は)できなかったですね。見るに忍びないけれど。山道ですよ。4分の1傾斜の道。2000メートル以上の山を越えてタイ北部のチェンマイへ抜けるのです。

 婦長もしまいには歩けなくなって、みんなで荷物を分けて持ちました。あんなところで一人になれば、生きる力はないです。何としてでも、みんな連れて帰らなければならないと。励まし、励まし、歩きましたね、夜も昼も。

特集・新着

旬のトピックス

ページの先頭へ
時事通信の商品・サービス ラインナップ