戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言 2

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隊長判断で脱出

 もう、そのころは前線も後方もごっちゃになっちゃって。戦線が乱れてしまって。敵は北部の戦場にいたんです。ところが、来るとは思わないところへ来ちゃった。

 ラングーンには和歌山班がいました。ここは全滅しました。敵が急に入ったもんで、逃げられなくて。途中まで逃げたけれど、川があって、シッタン川という川なんですけどね。

 死んでいくときは本当に骨と皮。(そういう患者を見てもインパールで)負けるとは思いもよりませんでした。勝ってるんや、勝ってるんやと。

 日赤の救護班は、和歌山班がラングーン、静岡班はカロー、熊本班はメイクティラー、メイミョウは愛媛、石川、佐賀、岐阜班と4個班いました。

 1個班は23人。医者はもうそのころはいなくて。本当は軍医である班長さんがいて、婦長さんが2人、あと看護婦が20人だけど、そうではなかった。だから、23人でなく21人。婦長さんも1人になってしまって。私が婦長の代わりをしていました。

 昭和20年2月11日夕のことでした。私たちはメイミョウを出発して、敵の中をずっと右往左往しながら、トラックでマンダレーまで下ったのです。

 隊長殿が「こんな状況になったのだから、救護班を後方に移そうと思うが」と師団司令部に電話を入れられたんです。そしたら司令部は「女のような足手まといになるものは知らん。勝手にせい」と。

 そしたら隊長殿は怒っちゃって。「今まで一生懸命ほう助してきたというのに」と。それから「よし」と言って、部隊のトラックを1個班に1台ずつ出してくださった。それに乗って山を下りたんです。

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